今日は文化の日です。俗世は3連休の2日目、私は無職生活217連休目となります。特に文化的なことをするでもなく部屋でゴロゴロしています。
無職生活も200日を超えてくると、たまに友人から「毎日何やってるの?」「暇じゃない?」と聞かれることがあります。幸か不幸か、今のところ予想外にやることが多く、それほど暇ではないので適当に答えています。
リアルでもネット上でもFIREの話題になると、それに伴って「暇問題」がよく出てきます。もっともFIREしていない人が言う「どうせFIREしても暇なだけ」という言葉は、多くの場合やっかみというか、いわゆる「酸っぱい葡萄」に過ぎないので、それほど聞く価値はないと思います。例えるなら独身者が想像だけで結婚生活のデメリットを口酸っぱく延々と語る感じでしょうか。ちなみに私は独身です。この例え話はここで止めましょう。
一方、FIREしている人の多くは、これをあまり問題視していない印象です。実際には暇じゃなくて充実している、という人も居れば、ゆったりした時間を謳歌している人も居ます。私もそれほど暇を問題視していません。個人的には、そもそも暇って悪いことなんだろうか、むしろ幸せな状態ではなかろうか、という思いがあります。社畜時代に忙し過ぎて鬱病になってしまった経験があるので、余計にそう思うのかもしれません。
暇をどうみなすか、これは考え方次第なのかもしれません。朝起きて「今日も暇、やることがない」と捉えるか、「今日も自由、これから何でもできる」と捉えるか。コップに入った半分の水を「もう半分しかない」と見るか「まだ半分もある」と見るか、みたいな話ですね。
自由とは言い換えれば選択肢の多さです。私は以前のように働く以外の選択肢がない状態には戻りたくありません。もちろん労働も選択肢の1つです。一方で、お金のために働かざるを得ない状況では、もはや労働は選択肢ではなく義務です。両者は全く意味合いが異なります。
とはいえ、私まだ無職生活1年未満のペーペーです。今後考えが変わるかも分かりません。先日XでFIRE3年目という猛者が「日々が暇」「充実感が無い」とポストしていました。これには少々考えさせられました。だって、これはFIREしていない人が想像で呟いたポストではなく、私よりも長くFIREしている人が実体験に基づいて呟いたポストですから。私もあと1~2年後くらいに同じ感情を抱く可能性もゼロではありません。
ただちょっと思うのは、本当にFIREしたせいで暇なのでしょうか。「働かないと暇でつらい」とは、少々乱暴に言い換えれば、その人の人生には労働しかない、ってことになります。よく「生きるために働くのか、働くために生きるのか」という問いかけを見聞きしますが、この場合は後者よりでしょうか。
結婚していれば家族と十分な時間を過ごすも良し、充実感を得たければ好きなことに熱中するも良し、世のため人のために何かをしたければボランティアでも良し。人生、何も労働だけが全てではないはずです。
せっかくFIREして思い切り自由に時間を使える身分にありながら、上記のような選択肢は全く思い浮かばず、自分の自己実現は労働(それも雇われ)の中にしかない、と思い込んでしまうのは危険な気がします。実のところ暇でつらいのはFIREのせいというより、その人の生き方、労働偏重の価値観、ないしは社会から植え付けられた罪悪感(働かざるもの食うべからず)から生じるものかもしれません。
いわば「労働教」という宗教による、ちょっとした洗脳みたいなものです。つまり労働を過剰に美化する、労働と自己実現を必要以上に結び付ける、働くとは生きることだ、みたいな思想です。労働にそういう側面もあることは否定しませんが、貴方が働くおかげで働かずに食べている人が居ることも忘れてはいけません。尊い教義に基づいて遂行されている貴方の労働が、実際にはそういう人にピンハネされているわけです。私が言うのなんですけど。残念ながらこの資本主義とはそういう経済体制です。
多くの人がFIREしても暇、充実感がない、また働きたい、と思うのであれば、おそらく労働教が非常にうまく機能しています。ある意味で奴隷制度の完成形とも言えそうです。かつての奴隷には少なくとも「奴隷の自覚」はあったと思いますが、今の奴隷(労働者)の多くはその自覚を持たず、むしろ進んで奴隷になりたがっているようにすら見えるからです。
偉そうに色々書いてしまいましたが、もしかしたら来年あたり当ブログで「FIREして後悔した、今は切実に働きたい」などと言っているかもしれません。その時は今日の記事が黒歴史となることでしょう。
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