「マリーの部屋」と呼ばれる思考実験があります。マリーは白黒の部屋で、白黒のテレビを通してのみ世界を見ています。彼女は赤や青などの色を実際に見たことがありません。一方、彼女は色に関するすべての「知識」を持ち合わせています。彼女が部屋を出て初めて色を見たとき、彼女は何か新しいことを学ぶだろうか、という思考実験です。
この思考実験は、物理的な事実や知識以外に、主観的な質的経験(クオリア)が存在する、ということを表そうとするものです。もしマリーが初めて赤い花なんかを見れば、「あー!これが赤なのね!」と感動しそうです。マリーは色に関するすべての知識を持っていたにもかかわらず、実際に色を見てみたら新しい発見や学びがあった。それこそがクオリアである、というわけです。
直観的には、これは正しいように思えます。多くの人がそう思うでしょう。この思考実験の提唱者(フランク・ジャクソン)自身も、マリーは初めて色を見ることでおそらく何か新しいことを学ぶのだから、物理的な知識を超えたクオリアがあるのだ、と言っています。
一方、ダニエル・デネットという哲学者は、マリーが初めて色を見たとしても新しく学ぶことは無いだろう、と主張します。マリーが本当に色に関する知識をすべて持っていたとすれば、色を見る体験についても深く知っているのだから、新たな学びは無いはずだ、というわけです。
私はどちらかと言うとデネットの方が正しいと思います。と言うより、もう少し過激な見解を持ちました。「マリーの部屋」の命題自体が破綻しており、そもそも彼女は白黒の部屋に居ても色が見えているのではないかと思います。
彼女は色に関する「すべて」の知識を持っている前提です。実際にすべてを知識化することなど不可能でしょう。しかし、その可否はともかくとして、この命題ではマリーが色に関するすべての知識を持っている前提なのです。そうであれば、実際に白黒の部屋に居ようと、白黒のテレビを見ていようと、色のすべてを熟知しているマリーは脳内で鮮やかな色を再現できているはずです。しかも、外で普通に色を見ている人たち以上に完璧な色が見えていることでしょう。
もしそうでないとすれば、マリーは色に関するすべての知識を持っている「つもり」だっただけで、実際には足りなかったのだと思います。逆に言えば、色のすべてを知り尽くしているマリーにとって、部屋やテレビが白黒である、という舞台設定自体が意味を成しません。色に関するすべての知識、というものを現実的に想像できませんが、とにかくマリーはそれを持っているのだから、実際の色が白黒であろうと、彼女の頭の中ではちゃんと色が再現されるはずです。
よって、マリーは外に出て初めて本当の色を見ても、新しい発見は何も無いと思います。それどころか、そもそも最初から、マリーは白黒の部屋の中でも色鮮やかな世界に生きていたのではないかと思いました。
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